昨日の一冊は、
ラフカディオ・ハーン『小泉八雲 東大講義録』(角川ソフィア文庫)

卯の花

日本語で語られたものではなく、
もともとは英語で語られたものです。

ハーンの講義ノートではなく、
講義を聞いた学生の筆記ノートを編集したのだそうです。

いろんな意味ですごいなと思います。

供というものは、
いつも素直に好き嫌いの気持ちを表現することができるが、
そのどちらの理由もきまって説明することができない。
例えば、
子供は「あの人は嫌いだ」と言うけれど、
彼にその理由を尋ねても無駄である。
彼は本能で喋(しゃべ)っているので、
その理由を告げることはできない。
(「自然詩人ワーズワス」より)