《差別の後ろ姿》
今日の山陰中央新報の「明窓」に、
こんな一節がありました。
  「闘うべきはコロナ」
  「感染者と特定した人に寛容に」。
  頭では分かっているが、
  現実はそうなっていない。

頭の正義を、
心の偏見が抑圧し、
体が差別を言動する。
差別の後ろ姿だと思いました。

自分には見えにくい。


心の偏見は、
世間の偏見を後ろ盾にしている。
それもまた、
差別の後ろ姿だと思います。

自分には見えにくい。


だから始末が悪い。


今日の朝日新聞に、
こんな記事がありました。
見出しのみ引用します。
  天理大学生 不当な扱い
   教育実習中止に
   アルバイト見合わせて
  ラグビー部クラスターで


これもまた差別の後ろ姿。

因果関係に乏しいことは分かっている。

でも、
不安や、
恐れや、
用心や、
時には、
感染を防ぐという大義や、
感染から守るという名分が、
不当や理不尽を生んでしまう。

正義を隠れ蓑にした偏見に、
人は気づきにくい。

後ろ姿だから。


そして、
その不安や恐れは、
多かれ少なかれ誰もが持っていて、
だから、
その不当や理不尽を、
この世情だから、
まあ仕方ないか、
と思ってしまう。

それも後ろ姿なので、
自分では気づきにくい。  


今朝の空のように、
心もどんよりしました。