【差別の後ろ姿】2020・8・21
2020年08月20日
《差別の後ろ姿》
今日の山陰中央新報の「明窓」に、
こんな一節がありました。
「闘うべきはコロナ」
「感染者と特定した人に寛容に」。
頭では分かっているが、
現実はそうなっていない。
頭の正義を、
心の偏見が抑圧し、
体が差別を言動する。
差別の後ろ姿だと思いました。
自分には見えにくい。
心の偏見は、
世間の偏見を後ろ盾にしている。
それもまた、
差別の後ろ姿だと思います。
自分には見えにくい。
だから始末が悪い。
今日の朝日新聞に、
こんな記事がありました。
見出しのみ引用します。
天理大学生 不当な扱い
教育実習中止に
アルバイト見合わせて
ラグビー部クラスターで
これもまた差別の後ろ姿。
因果関係に乏しいことは分かっている。
でも、
不安や、
恐れや、
用心や、
時には、
感染を防ぐという大義や、
感染から守るという名分が、
不当や理不尽を生んでしまう。
正義を隠れ蓑にした偏見に、
人は気づきにくい。
後ろ姿だから。
そして、
その不安や恐れは、
多かれ少なかれ誰もが持っていて、
だから、
その不当や理不尽を、
この世情だから、
まあ仕方ないか、
と思ってしまう。
それも後ろ姿なので、
自分では気づきにくい。
今朝の空のように、
心もどんよりしました。