《案外》

現在進行形の本読み、

金子成人『ごんげん長屋つれづれ帖』(双葉文庫)

あと少しで読み終わります。

それがなんとも惜しい気がします。

ごんげん長屋

こんな場面があります。

  「わたし、どうも、腹にやや子が出来たようなんです。」

  そう口にしたおたかの顔は暗い。

  「おめでたいじゃないか」

  「でも」

  「やや子、欲しくないのかい」

  「欲しいけど、何かと物入りになるから」

  おたかは、ため息をついた。

      (中略)

  「今日はもう、何かと遅いから、明日、赤飯炊いて、長屋のみんなに振る舞いなさい」

  「けどお勝さん、先に住んでいた長屋で弥吉を身籠ったときは、そんなことしませんでしたよ」

お勝が言います。

 しなきゃ駄目なの。

 いいかいおたかさん、赤飯を振る舞ったり、岩田帯で帯祝いをしたりするのは、

 生まれてくるやや子をよろしくと言うための、みんなへのお知らせなんだ。

 そうしたら、長屋のみんながおたかさんを気遣ってくれる。

 弥吉もうちの子供たちも、おたかさんの手伝いを買って出るようになるし、

 生まれるのが弟分か妹分かわからないが、

 面倒を見たり可愛がったりする準備を始めるんだよ。

 

それを聞いて、おたかの顔つきが明るくなります。

 

今の私の心持ちから言うと、

そういうのはちょっと息が詰まるような気もしますが、

子どものころを思い返すと、

そういうことで、案外、救われていたような気がします。

 

人交じりが苦手な我が子のために、

母はよく近所の子どもたちを招いておやつや軽食を振る舞っていました。

それでにわかに活発な子にもならなかったし、

友だちが増えたようなこともなかったけれど、

一人でいる自分を後ろめたく思わなくなりました。

授業で積極的に発言できない自分をダメな子だと思わないようになりました。

しょっちゅう腹痛で学校を休んで寝床で学校のチャイムを聞いても恥ずかしいと思わなくなりました。

 

母のそうした気遣いを重荷に思ったこともありましたが、

今になって思えば、

案外、

そのことで救われていたのかもしれない・・・と、

そんなふうにも思います。