「AERA」No9(11月2日号)、
巻頭特集は「『男らしさ』『女らしさ』を押しつけないで」でした。
「家庭学校で感じるジェンダーのモヤモヤ」から、
モヤモヤの原因をいくつかを引用します。
  「女の子なんだからピンクとか可愛い色を着せてあげたら」と親戚から言われる。
  「男の子は足が速くないとカッコよくない」と子どもに言ってしまう。
  「あなたが痴漢に遭うような格好してるからよ」と担任の先生から言われた。
  「男なんだから泣くな」が父親の口癖だった。
  保育園の送迎のために時差出勤したら、女性社員から「主婦みたい」とからかわれる。
  妻の方が収入が高いことは知られたくないと夫が思っている。
  「女の子だからお手つだいしなさい。そんなんじゃお嫁に行けないよ」と母親からよく言われた。
  「髪の毛とかそうよ。女子力アップ」とか「女は愛嬌」などと、つい娘に言ってしまう。
  理系の男性教諭から「女の子だから数学できなくても当たり前」と言われ可能性を閉ざされた気がした。
  代表や委員長になるたびに小学校の先生や友達のお母さんから「女の子なのに偉いね」と言われた。
  ミスをして落ち込むと「男のくせに情けない」とよく言われた。
  「男の子にモテるために、自分を低め、バカなふりをする必要はないよ」と繰り返し伝えたい。
  「この部署の女性は美人ぞろいだ」などとルッキズム(外見による差別)丸出しの発言が平気でされる。
  飲み会で若い女性を役職者の近くに座らせる。
  (人事などで)「できれば男がいいな」という声を聞く。
  家庭内で求められてきた「ケア労働」を職場でも強いられる。

  お茶くみはもちろん、差し入れの菓子をいかに素早く取り分けるかを女性たちが競っている。

こうしたこと、
「つい」とか「何気なく」とか「知らずしらず」とか「気づかないうちに」・・・、
ということが案外あるものです。
「女性たちが進んでやっているのだから問題ない」という意見もあると「AERA」も書いています。

《ジェンダーについて、こんなこと思ってます》という記事からの引用。
  言葉狩りの様相を呈しているように思えることがある。
  表現に気を使いすぎて本質を指摘できないことになっていないか心配です。

  ジェンダーについての考え方が、極端ではないだろうか。
  何でも差別や偏見に繋げて正当化している感じもする。
  本来、バイアスを決める基準は人それぞれのはず。
  それを統一しようとすると何でもかんでも取り締まる方向に向く。
  それって正しいのかなぁと考えてしまう。

AERA
今度の中学校の講演で話題にしようと思います。
結論を急がずに考えてもらいたいと思います。