遠藤寛子『算法少女』(ちくま学芸文庫)を読みました。
何かの本に、
鳴海 風『和算の侍』(新潮文庫)と一緒に紹介されていました。

算法少女

『算法少女』は、
挿絵の多さや、
その文体からして少年少女向けの小説と思われますが、
その中身はなかなか深いものがあります。

一か所だけ紹介します。
それは「九九」の話です。
主人公の千葉あきが算法を教える塾には、
「九九」を知らない子もいるというくだりの場面。
  あきが、この計画をいいだしたとき、
  父の桃三(とうぞう)は、
    ふうん、九九をしらぬものもおおいからなあ。
    あれはたいそう歴史の古いもので、
    万葉集という、むかしの和歌の本にも、
    九九を使った歌があるのになあ。
    子どもらには教えてやらなあかん。
    行ってやりな」

万葉集に「九九」?!
初耳でした。
その一例として紹介された歌は、
   やすみしし わが大君は
   み吉野の あきつの小野の
   野の上(え)には 鳥見(とみ)すえおきて
   み山には 射部(いめ)たてわたし
   朝狩に 十六ふみおこし
   夕狩りに 鳥ふみたてて
   馬なめて みかりぞ立たず
   春の茂野(しげの)に

     わが大君は吉野のあきつの小野の野あたりに、
     鳥見(鳥獣のようすをしらべる役目の人)を配置し、
     山には射部(鳥獣を射るために射手が身を隠す設備)を一面に設け、
     朝(あした)の狩りでは猪をふみったて、
     夕(ゆうべ)の狩では鳥を追いたて、
     馬をならべて狩をなされる。
     それは春のしげった野のことである。
「十六」と書いて{しし」と読ませるのは、
4×4=16(ししじゅうろく)が頭にあって初めて成り立つことです。

ただただ、
素朴に感銘を受けました。