「障害」か?
「障碍」か?
「障がい」か?
「障害を持つ」か?
「障害がある」か?

これまで思いを巡らすことが多かったのですが、
昨日の山陰中央新報「読者ふれあいページ」、
山崎ナオコーラの連載「日常の社会派」(5)を読んで、
あるヒントをもらいました。
彼女の今回のテーマは「『~のある』という言葉」でした。
  先日、
  ダウン症のある弟さんがいる方とお話をした。
  そのとき、
  私は「ダウン症のある子」という言い方をしたり、
  「障害のある子」という言い方をしたりしたのだが・・・。

自分でこういう言い方をしつつ、

その言い方に違和感を感じたというのです。

彼女は、
近年、「ダウン症児」や「障害児」という言い方がなくなりつつあると書いています。

私も同感です。

彼女は、
そういう言い方に代わって、「~のある」という言い方が浸透してきたと書いています。
私もそう思います。

さらに彼女は、
「ダウン症のある」はしっくりするが、
「障害のある」はしっくりこないと言っています。
私も確かにそうだと思いました。

「ダウン症」はその人の側にあり、
「障害」はその人ではなく社会の側にあるからです。

「障害」「障碍」「障がい」という表記にこだわる人は多いですが、
「障害」を、
それがあるために人を生きにくくしている社会の側にあるもの、
・・・と考えれば、「しょうがい」の表記は「障害」でいいのではないか。
もっと言えば、
施設や文化のハードルが、
人間が生きていく上での「障害」なのだから、
「障害」を「障碍」「障がい」と表記しなくてもいいのではないか、
これが私の見解です。

さらに、
「障害」を人間の外に立ちはだかる社会の側にあるものと考えれば、
「障害がある」も問題はないというのは彼女も私も同意見です。

たとえば、
  私の前に私を生きづらくさせている障害がある。
そういう意味で「障害がある」という言い方をするならば・・・。

彼女は誤解されないためには、
「社会の中で移動したり他者と交わろうとしたりするときに障害を感じやすい人」
という表現を提案するものの、
それでは長すぎるので、
  「障害のある人」でも、
  私の言いたい意味を表していると取れないこともない。
・・・と、微妙に違和感を覚えつつ書いています。

「障害がある」を、
その人を生きにくくするものが、その人の外、すなわち社会の側にあると考えれば、
「障害」はやはり「障害」です。
「障害のある」を、
その人の内にあるものと捉えたら、「障害を持つ」と何ら変わらない使い方になってしまう。

どういう言い方が誤解を生まない言い方か、
なかなかに難しい。

でも、
論点ははっきりしたように思いました。

それで、
思いついたこと。
よく「障害は個性だ」という言い方をする人がいます。
「個性」はその人の属性なので、
「障害=個性=属性=特徴」という前提に立っています。
なので、
私は昔も今も、
この言い方には違和感を持ちます。

土曜日の講演で、
「障害のある子どもたち」と、
あまり深く考えずに使ったので、
「『~のある』という言葉」が大いに心にかかりました。