昨夜、
宮城谷昌光『孔丘』(文藝春秋)を読んで知りました。
孔子は離婚したそうです。
そして、
孔子の二人の子どもを、
嫂(あによめ)が育てたとあります。
「ふたりの子を、あずかりますよ」
「たすかります」

そのあたりを読んだら、
ページをめくる指がしばし止まりました。
  この人には、無限のやさしさがある。
  孔丘がなにをめざし、
  なにをやろうとしているか、
  たぶん嫂にはわかるのであろう。
  さしでがましい好意を避けるところに、
  嫂の賢さがある。
  妻と嫂とでは、
  本質的に人としてのわきまえと心のぬくもりがちがう。
  嫂には、学ぶところがすくなくない。

最近、
「あの人」の発言以来、
「わきまえる」という語が、
「悪者」のような扱いを受けています。
反対に、
「わきまえない」ことが、
あたかも正義であるかのようにもてはやされています。

私はそうは思いません。
「わきまえる」ということは、
人間としての美徳の一つだと思います。

「人としてのわきまえ」と「心のぬくもり」
・・・目と心が留まりました。
旬1