【わきまえ】2021・3・27
2021年03月27日
昨夜、
宮城谷昌光『孔丘』(文藝春秋)を読んで知りました。
孔子は離婚したそうです。
そして、
孔子の二人の子どもを、
嫂(あによめ)が育てたとあります。
「ふたりの子を、あずかりますよ」
「たすかります」
そのあたりを読んだら、
ページをめくる指がしばし止まりました。
この人には、無限のやさしさがある。
孔丘がなにをめざし、
なにをやろうとしているか、
たぶん嫂にはわかるのであろう。
さしでがましい好意を避けるところに、
嫂の賢さがある。
妻と嫂とでは、
本質的に人としてのわきまえと心のぬくもりがちがう。
嫂には、学ぶところがすくなくない。
最近、
「あの人」の発言以来、
「わきまえる」という語が、
「悪者」のような扱いを受けています。
反対に、
「わきまえない」ことが、
あたかも正義であるかのようにもてはやされています。
私はそうは思いません。
「わきまえる」ということは、
人間としての美徳の一つだと思います。
「人としてのわきまえ」と「心のぬくもり」
・・・目と心が留まりました。