【庭読書】2021・5・29
2021年05月29日
涼しいというか、
やや肌寒い風の中、
庭の椅子に腰かけて、
二冊の文庫本を拾い読みしました。
井伏鱒二「寒山拾得」(『山椒魚』新潮文庫所収)と、
山下景子『花の日本語』(幻冬舎文庫)から「花大根」を。
「寒山拾得」
「私」が、
早稲田の文科の時の旧友・佐竹小一と思いがけなく出会い、
二人とも大いに飲んで酔っ払って、
飲み屋からの帰り道、
どちらが寒山拾得の笑いに似ているか、
「げらげらげらげら」笑いながら競う話です。
なんとも他愛なく、
それでいて屈託がなく、
井伏らしい作品だと思いました。
森鷗外も「寒山拾得」という短編を書いていますが、
台州の知事職である男が、
天台山国清寺に寒山拾得を訪ね、
自らの官職を述べて拝礼すると、
焚火に当たっていたむすぼらしい身なりの二人は、
大声で笑ったかと思うと、
どこかへ逃げ去ったという話。
事大主義というか身分意識というか、
肩書にこだわる人の性(さが)を皮肉った作品のように思い、
これはこれで鷗外らしいなと思います。
もう一冊の『花の日本語』の「花大根」に、
「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」
という言葉が引用されていて、
それが武者小路実篤の言葉とされていました。
だから、
バルザックの『谷間の百合』を何度読み返しても見つからないはずです。
積年の疑問が氷解しました。
ただし、
私が高校生に覚えた言い回しは、
「見るもよし 見ざるもよし だが我は咲くなり」でしたが・・・。