涼しいというか、
やや肌寒い風の中、
庭の椅子に腰かけて、
二冊の文庫本を拾い読みしました。

井伏鱒二「寒山拾得」(『山椒魚』新潮文庫所収)と、
山下景子『花の日本語』(幻冬舎文庫)から「花大根」を。
旬1
「寒山拾得」
「私」が、
早稲田の文科の時の旧友・佐竹小一と思いがけなく出会い、
二人とも大いに飲んで酔っ払って、
飲み屋からの帰り道、
どちらが寒山拾得の笑いに似ているか、
「げらげらげらげら」笑いながら競う話です。
なんとも他愛なく、
それでいて屈託がなく、
井伏らしい作品だと思いました。

森鷗外も「寒山拾得」という短編を書いていますが、
台州の知事職である男が、
天台山国清寺に寒山拾得を訪ね、
自らの官職を述べて拝礼すると、
焚火に当たっていたむすぼらしい身なりの二人は、
大声で笑ったかと思うと、
どこかへ逃げ去ったという話。

事大主義というか身分意識というか、
肩書にこだわる人の性(さが)を皮肉った作品のように思い、
これはこれで鷗外らしいなと思います。

もう一冊の『花の日本語』の「花大根」に、
「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」
という言葉が引用されていて、
それが武者小路実篤の言葉とされていました。

だから、
バルザックの『谷間の百合』を何度読み返しても見つからないはずです。
積年の疑問が氷解しました。

ただし、
私が高校生に覚えた言い回しは、
「見るもよし 見ざるもよし だが我は咲くなり」でしたが・・・。