残り少ない講演の準備をしていて、
井上靖の文章に再会しました。

前に読んだときは、
娘たちはまだ幼かったので、
「そういうこともあるのか」というほどの感慨でしたが、
娘たちが結婚して、
それぞれ母親になった今、
偶然の再会とはいえ、
じっくり読んでみると、
なんかこう、
心にしんしんとしみてくるものがありました。

  結婚式の当日、
  私に別れの挨拶をした娘は、
  いま二児の母となり、
  絶えず実家である私の家にやって来ている。
  形の上ではいっこうに別れたとは言えないのである。
  しかし、
  私と娘の間には、
  やはり“別れ”はあったのであり、
  今にして思うと、
  その“別れ”は、
  私がこれまでに経験した“別れ”の中で、
  なかなか上等なものではなかったかと思う。
  いつまでも心の中で大切にしておきたいような“別れ”である。
  心をえぐるような悲しみも、淋しさもないが、
  その底に置かれているものの意味は、
  一組の親と子の持たねばならぬ生別でも、死別でもない。
  生きものの掟によってきめられてある“別れ”のような気がする。
  それだけに、
  本質的にはあるきびしさがある。
  そういう考え方をすると、
  私は一度別れた娘と、
  いま改めてまた付合っているのである。

私もいま、
一度別れた娘と、
ここ数カ月、
改めてまた一緒に暮らして、
また別の親子の在り方で付き合っているのです。  
同時に、
“別れ”のきびしさの中に生きているのです。