石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)を買いました。

旬1
序章「『ごんぎつね』の読めない小学生たち」を読みました。
  都内のある公立小学校から講演会に招かれた時のことだ。
  校長先生かが学校の空気を感じてほしいと、
  国語の授業を見学させてくれた。
  小学四年生の教室の後方から授業を見ていたところ、
  生徒の間から耳を疑うような発言が飛び交(か)いだした。
    この話の場面は、
    死んだお母さんをお鍋に入れて消毒しているところだとお思います。

    私たちの班の意見は違います。
    もう死んでいるお母さんを消毒しても意味がないです。
    それより、
    昔はお墓がなかったので、
    死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたんだと思います。

    昔もお墓はあったはずです。
    だって、
    うちのおばあちゃんのお墓はあるから。
    でも、
    昔は焼くところ(火葬場)がないから、
    お湯で溶かして骨にしてから、
    お墓に埋めなければならなかったんだと思います。

    うちの班も同じです。
    死体をそのままにしたら、
    ばい菌とかすごいから、
    煮て骨にして土に埋めたんだと思います。

いたずらばかりして、
迷惑をかけていたキツネの「ごん」が、
母親思いの「兵十」に心打たれて、
罪滅ぼしのために毎日のように、
栗や松茸をこっそり届けます。

あるとき、
「ごん」が、
「兵十」の母親の葬儀に出くわした場面の授業です。

村人が「兵十」の家に集まり、
葬儀の準備をしています。
村の女たちが大きな鍋で料理をしています。
  よそいきの着物を着て、
  腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、
  表のかまどで火をたいています。
  大きななべの中では、
  何かがぐずぐずにえていました。

石井さんは、
  常識的に読めば、
  参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。

と書いていますが、
その「常識」も「想像」も子どもたちには無縁だったようです。

読んでいて、
「耳を疑う」こともなく、
驚きあきれることもなく、
ただ、
さもありなん・・・と思いました。

そして、石井光太さんの次の言葉に心の底から同意しました。
  こうした子たちに何が欠けているのかといえば、
  読解力以前の基礎的能力なのです。

気持ちや背景を想像する力、
別の物事と関連付ける力、
石井さんはそんなふうに説明しています。

長い時間をかけて失われ、
容易には修復できない「何か」