【空車】2022・10・22
2022年10月22日
大修館書店の機関誌「国語教室」10月号に、
詩人で小説家の小池昌代さんが、
エッセイを載せています。
森鷗外は『空車(むなぐるま)』という随筆を書いているそうです。
逞しい馬を操る大男が、
大いなる空(から)の車を牽(ひ)いているのを見ると、
どうしても目が離せなくなる。
でも、
この空の車に荷物など載せていけばいいのになどとは、
決して思わない。
おおよそそんな内容だそうです。
これを読んで、
小池さんは、
心が震え慄然(りつぜん)としたと書いて、
こう続けています。
小説を書くことは、
この空車に心や精神を載せ、
例えそれが空と知っていても、
ごりごりと全力で押し続けることに似ていた。
「大根おろしは汁を棄てず、醬油など掛けなかった」
鷗外の『渋江抽斎』にこんな一節があるそうです。
空車の空を埋めるのは、
歴史から漏れ落ちる、
こうした日々の習慣ではないか。
そこに抽斎の思想、
五百の思想、
鷗外の精神が雨滴のように光って宿る。
鷗外はやはり小説家なのだ。
物から離れて精神を語らない。
深いなあと思います。
空と知っていても、
心や精神を載せて、
ごりごりと全力で押し続ける。
小説に限らず、
芸術というものは、
そして教育もそういうものだろうなと思いました。