大修館書店の機関誌「国語教室」10月号に、
詩人で小説家の小池昌代さんが、
エッセイを載せています。

森鷗外は『空車(むなぐるま)』という随筆を書いているそうです。
逞しい馬を操る大男が、
大いなる空(から)の車を牽(ひ)いているのを見ると、
どうしても目が離せなくなる。
でも、
この空の車に荷物など載せていけばいいのになどとは、
決して思わない。

おおよそそんな内容だそうです。

これを読んで、
小池さんは、
心が震え慄然(りつぜん)としたと書いて、
こう続けています。
  小説を書くことは、
  この空車に心や精神を載せ、
  例えそれが空と知っていても、
  ごりごりと全力で押し続けることに似ていた。

「大根おろしは汁を棄てず、醬油など掛けなかった」
鷗外の『渋江抽斎』にこんな一節があるそうです。

  空車の空を埋めるのは、
  歴史から漏れ落ちる、
  こうした日々の習慣ではないか。
  そこに抽斎の思想、
  五百の思想、
  鷗外の精神が雨滴のように光って宿る。
  鷗外はやはり小説家なのだ。
  物から離れて精神を語らない。

深いなあと思います。
  空と知っていても、
  心や精神を載せて、
  ごりごりと全力で押し続ける。

小説に限らず、
芸術というものは、
そして教育もそういうものだろうなと思いました。