昨日の一日一冊は、
小川洋子『掌に眠る舞台』(集英社)

旬1

8編の短編のうち、
7編目「いけにえを運ぶ犬」の「僕」は、
時折やってくる「馬車の本屋」の本棚から、
欲しくてならなかった本「渡り鳥の秘密」を、
こっそりシャツの下に隠して持ち帰ろうとします。
抜粋して引用します。

  僕は右の脇に「渡り鳥の秘密」を挟み、
  左手のシャツの裾をつかんだ。
  その時ふと、
  視界の隅に“デカイ犬”の姿が写った。

この「馬車の本屋」の馬車を引いているのは、
馬ではなく大きな犬です。

  たるんだまぶたの奥にある瞳は、
  真っすぐに僕を射抜いていた。

  とっさに僕はシャツから手を放し、
  『渡り鳥の秘密』を、
  本来あるべき場所に戻した。

  僕は一刻も早く犬の瞳から離れるため、
  走って家まで帰った。

  以来、
  「馬車の本屋」が来ても、
  僕は二度と『渡り鳥の秘密」には触れなかった。
  手を近づけるだけで、
  犬の視線が突き刺さってくるような気がした。

 

おそらく、
これに似た過去は誰にあるような気がします。
現に子どもの頃の私にもあります。

忘れたように思っていても、
ふとした折に、
何かのきっかけで、
まるで結節に潜むウイルスが、
時を経て帯状疱疹を引き起こすように、
痛みを伴って蘇ってきます。

忘れたい記憶ほど、
薄れることはあっても、
消え去ることはないのです。