【宮沢賢治】2023・2・26
2023年02月26日
昨日の一日一冊は、
宮沢賢治『ふた子の星』(フォア文庫)
幾つかの童話が入っていますが、
その中で、
最後の一編「黄いろのトマト」が、
最も興味をそそられました。
「はちすずめ」が言います。
ペムペルという子は、
まったくいい子だったのにかわいそうなことをした。
ネリという子は、
まったくかわいらしい女の子だったのにかわいそうなことをした。
「私」は何がかわいそうなのか知りたくてならないのに、、
「はちすずめ」はなかなか教えてくれません。
おそらく読者もそうだろうと思います。
だから私も興味がそそられて、
その先その先と読んでしまいました。
「はちすずめ」が明かす「かわいそうなこと」は、
町にサーカスがやって来た日に起こります。
ペムペルとネリは、
大切に育てた黄いろのトマトを「木戸口」の男に差し出して、
中に入れてもらおうとします。
男がどなりつけて、
トマトを投げつけます。
それがネリの耳に当たって、
ネリはわっと泣き出します。
大人たちはどっと笑います。
ネリを連れ出したペムペルも「高く泣き出した」のです。
「はちすずめ」が言います。
ああかわいそうだよ。
ほんとうにかわいそうだ。
わかったかい。
聞いた「私」も、
「あのきょうだい」がかわいそうになり、
「目がチクチクッと痛み、涙がぼろぼろこぼれたのです」
世の中には、
お金よりもっと大切なものがある。
お金では買えないものがある。
それは人の愛情とか、
人の真心とか、
そういうものだと言いたいのだと思います。
でも、
世の中は必ずしもそのようではない。
それに気づかず、
笑いものにしたりすることもある。
それがさびしく、
そのさびしさにさらされる者がかわいそうだと、
この話は言っているのでしょう。
こんなストーリ性もあり感動もある話があるのに、
どうして、
ストーリー性も感動も薄い「やまなし」ばかりが、
教科書にのるのだろう。