【あるところには】2019・5・10
2019年05月10日
《松江のごみ袋》
4月に入ってから、
スーパーでもコンビニでも、
松江市指定のごみ袋が姿を消しました。
山陰中央新報のインタビューに答えた人が、
「どこに行っても見つからないので・・・」
と言っていましたが、
大げさでなく、
まさにそのとおりの状況です。
この記事、
5/8の記事です。
マスコミはいつ取りあげるのだろうと思っていましたが、
やっとという感じでした。
それによると、
11日以降に5万7千袋、
18日以降に12万6千袋が、
店頭に並ぶ見通しだそうです。
そして、
昨日、
松江市長が周知不足を謝罪していました。
4月1日以降、
旧型のごみ袋の収集を取りやめるということの周知が、
不足していたということでしょう。
《あるところには》
ところが、
市内某所で、
たまたま見つけて、
驚喜して買いました。
開口一番、
「あるところにはあるんですね」
と言ったら、
お店の方は、
「どうやら不足しているみらいですね」
というゆるい反応。
そうだろうなあ~と思いました。
「あるところにはある」からすれば、
「ないところにはない」が不思議なのでしょう。
同じことは、
ごみ袋以外でも、
どこでもあることなのでしょう。
それがある人からすれば、
それがないことは不思議で仕方が無く、
それができる人からすれば、
それができないことは不思議でならないのでしょう。
たとえば、
毎日、
学校に行っている子どもの親からすれば、
学校に行きづらいことが不思議でならない。
学校に行きづらい子も、
毎日学校に行く子のことを、
どうしてだろう?
・・・と不思議に思うこともあるだろうけど、
その不思議は次元が異なる気がします。
持てる人の不思議と、
持たざる人の不思議、
できる人の不思議と、
できない人の不思議、
そこには不思議の大きな違いがあるように思います。
軽視と羨望のような違い・・・でしょうか?
そうは思いつつも、
学校に行かないのも勇気なら、
学校に行くのも勇気だと思います。