よぶこえの引き出し

【遠藤周作の神】2019・6・8

2019年06月09日

《夫婦の一日》
いつだったか、
どこだったか、
古本屋さんで買った本を、
昨日から読み始めています。

遠藤醜悪『夫婦の一日』(新潮社)

今まで読んだ遠藤周作の作品とは、
かなり印象の異なる作品です。 

 【遠藤周作の神】2019・6・8


神とは何か?
切支丹とは何か?
神と仏はどう違うか?
また、
民衆はなぜあれほどまでにイエスを迫害したか?
という疑問まで、
登場人物に語らせています。

「彼」の従兄の通夜、
外国人の神父が、
聖書の一節を朗読します。
  神は悪人の上にも善人の上にも・・・太陽をのぼらせ、
  正しい者の上にも、正しくない者の上にも、
  雨をふらせてくださる。

通夜が終わってから、
「彼」は神父に尋ねます。  
  さっきの言葉ですけど・・・
  神は善人の上にも太陽をのぼらせ、
  雨をふらせてくれるとは・・・
  あれ、どういう意味ですか?

神父が答えます。
  それは、
  私たちには、
  どの人が善人で、
  どの人が悪人か、
  裁いたり決める資格はない、
  と言うことでしょう。

  誰だって、
  他人の心の底はわかりませんですし、
  善人にみえる人の本心も、
  悪人にみえる人の本心も、
  わかりませんです。

  自分だって、
  自分の本当の心がわかりませんですから。
  それを見ぬけますのは神さまだけです。
  
  そういう意味と思います。

なるほど、
そういう解釈もあるのか?!


こんな箇所もあります。
  神は、
  ある者には、
  老年と共に安らぎを与え、
  他の者には、
  老年と共に死の恐怖、
  生命への執着、
  生き残る者への嫉妬、
  醜いあがきを与える。


仏と神については、
  されば、
  仏教では、
  仏は人間の優れた化身であっても、
  人間を越えたものとは申されませぬ。

  だが、
  切支丹の神は人の化身に非ず、
  永劫に不動不変の命そのものでございます。

そして、
私のような信仰から遠い者が抱く疑問をも代弁してくれています。
  イエスを嘲笑し、
  石をなげ、
  唾をはきかける群衆のざわめきが聞こえてくる。
  大衆とはそういうものだ。

  彼等は、
  昨日まで、
  そのイエスに熱狂していた人たちだった。
  
  なぜ、
  そう変わったのか。


そして今、
細川ガラシャが、
苦悩の半生の中で、
なぜ仏教に向かわずに、
切支丹に向かったのか?
という箇所を読んでいます。

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