よぶこえの引き出し

【夙に思う】2019・7・24

2019年07月24日

《夙に》
「広辞苑」第七版を開く。
  つとに【夙に】①朝早く。早朝に。 ②早くから。以前から。


《夙に思う》
過越祭((すぎこしさい)が終わって、
一家は家路につきましたが、
1日行ったところで、
イエスがいないことに気づきます。

探しても見つからないので、
エルサレムに戻ることにしました。

3日後、
エルサレムに着いたヨセフとマリアは、
イエスが神殿で、
学者たちの真ん中に坐って、
彼らと対等に議論しているのを見つけました。

マリアがたしなめます。
 どうして、こんなところにいるのですか?
 お父さんもわたしも心配して探していたのですよ。

イエスが答えます。
 どうして探したりしたんですか?
 私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか?

ということが、
早朝に読んだ本に書いてありました。

セブンイレブンで買った、
渋谷申博『図解 眠れなくなるほど面白い聖書』(日本文芸社)

 【夙に思う】2019・7・24



それに続く箇所を引用します。

  神の子であるイエスにとって、
  神殿こそが、 
  「父」がいる家だったのです。

  この時点では、
  聖母マリアでさえ、
  イエスがどういうお方かわかっていなかったようです。


聖母マリアでさえそうなら、
人の子の親は、
なおのこと、
我が子が、
何者であって、
何者になるのか、
それすら分からなくて、
事ある毎に、
右往左往するのは、
やむを得ないことなのかもしれません。

ただ言えることは、
乳児期は肌を離さず、
幼児期は手を離さず、
学童期は目を離さず、
思春期は心を話さず、
大人になっても縁は離さず、
・・・ということでしょうか?


今朝の「夙に思う」は、
人の子の親の思いでした。

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