よぶこえの引き出し

【夜明けに思う】2019・7・25

2019年07月25日

《夜明けに思う》
障子を開けたら、
壁を歩く蜘蛛が一匹。

子どものころ、
大人たちから言われたこと。
朝の蜘蛛は殺してはいけない。

なんで?
と思いながらも、
その理由を聞きませんでした。
聞いてはいけないような気がしていました。
聞くのがこわいような気もしていました。

盆には殺生はするな。
なぜか、
このことだけは特に厳しく言われ、
だから、
このことは絶対にしてはならないと思い、
このことだけは正しく守ってきました。


大人から、
はっきりと言われたわけではなくても、
これはやっちゃいけないということが、
自然に対して、
人間について、
社会において、
禁忌のように思うことがいくつもありました。

それは、
生命尊重とか、
マナーとか、
エチケットとか、
道徳とか倫理とか、
思いやりとか、
そうしたことを越えた、
もっと高度な次元のことでした。

いわば、
唐木順三のいう「畏れという感情」でしようか?

たしか、
こんな箇所がありました。

山の水源を汚さないのは、
次にここで水をすくう人に対するマナーとか、
山のエチケットとか、
そういうことではない感情が動いているのだ。

地下数キロメートルから、
固い岩盤の隙間を探して湧いてくる、
そのことの神秘、
そのことの不可思議、
そういうことに対して、
畏れ慎む感情、
厳かなるものにひれ伏す感情。

唐木順三は、
そんなことを言っていたように思います。

今の時代、
そういう感情が、
ひどく薄れてきているように思います。


私は、
小学生のころ、
夾竹桃(きょうちくとう)を忌み嫌う子どもでした。

私の誕生日、
大人たちが、
よく言いました。

 今日は広島に原爆が落とされた日だ。

 焼けただれた人たちが水を求めて太田川を流されていった。

 100年、草木も生えないと言われた焼け野原に真っ先に花をつけたのが夾竹桃だった。


今でも、
夾竹桃を見ると、
毎年繰り返された「ヒロシマ」が大人たちの声色(こわいろ)で甦(よみがえ)ります。
8時15分に鳴らされたサイレンの記憶が動悸を速めます。

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