よぶこえの引き出し

【大根と鶏頭】2019・10・4

2019年10月04日

《大根》
今朝、
プランターから、
大根を一本、
抜いてきました。

もう立派な大根でした。

今朝の味噌汁と、
朝食の野菜炒めになりました。

 【大根と鶏頭】2019・10・4




《鶏頭》
郵便局に行った帰り、
道の辺に、
鶏頭を見つけました。

昔は、
どこにでもあったのに、
このごろ、
めっきり、
見かけなくなりました。

 【大根と鶏頭】2019・10・4  【大根と鶏頭】2019・10・4



《落ち葉》
鶏頭のそばに、
落ち葉が落ち葉していました。

 【大根と鶏頭】2019・10・4



《それぞれの句》
  流れ行く大根の葉の早さかな  高間虚子

    鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

      手が見えて父が落葉の山歩く  飯田蛇笏

        拾得は炊き寒山は掃く落葉  芥川龍之介




《名句か凡作か》
白井明大『季節を知らせる花』(山川出版社)に、
鶏頭の十四五本・・・の句が取り上げられています。

この句についての、
さまざま意見が載っています。

  鶏頭がきっと十四、五本ほども咲いているでしょう、
  といった、
  一見なんていうこともなさそうな句。

  正岡子規のこの晩年の句を、
  愛弟子である高浜虚子は、
  『子規句集』を編むときに、
  選びませんでした。

  歌人の斎藤茂吉は、
  この句を絶賛し、
  子規が到達した俳句の境地のように評しています。

  否定的な見方には、
  「鶏頭をほかの花にしても成り立つんじゃないか」
  「十四五本が、七八本でも変わらない」
  といったものがあるようです。

  いや、すばらしい句だ、
  奇をてらったり、
  修辞の巧(うま)さをアピールしたりするような、
  力みや欲がこれっぽちもなくて、
  あたかも人と自然と言葉とが、
  ひとつに溶け合ったように見事だ、
  という解釈もあります。

  いったい、
  名作なのか?
  凡作なのか?   

 【大根と鶏頭】2019・10・4
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