よぶこえの引き出し

【大山】2020・2・16

2020年02月16日

《大山》
昨日の午後、
体調がすぐれなくて、
気分が晴れないという人を見舞いました。

思いのほか元気でした。
元気になったそうです。

火曜日、
病院に行くそうです。
検査のために。


庭に白い花が咲いていました。 

【大山】2020・2・16



猫を抱いて、
いつまでもいつまでも、
通りの真ん中に立って、
見送ってくれました。


帰路に見た大山が、
それはそれは綺麗でした。

【大山】2020・2・16



寝る前に解いていた現代文の問題集に、
加藤周一の文章が採られていました。
  言葉による表現とは、
  われわれと対象との関係を限定することであり、
  逆に、
  そのような限定を伴わずに言葉で何ものかを表現することはできません。
                   (加藤周一「文学とは何か」より)

大山のことを書こうが、
庭の花を書こうが、
その選んだ言葉には、
心配や安堵や、
その人との好ましい関係性がにじみ出てしまう。

誰かが、
誰かを語るということは、
おそらく、
そういうことなのでしょう。

加藤周一が一例を挙げています。
  主観をまじえずに、
  革命の情景を描写するというような、
  極端な場合を考えてみれば、
  明らかにわかることです。
  
  ある人は、
  パリの人民大衆が、
  第二帝政を打倒したと書きます。
  またある人は、
  不逞(ふてい)の輩(やから)が世の中を騒がせたと書きます。

  「人民大衆」という言葉も、
  「不逞の輩」という言葉も、
  単に客観的な対象を示すのではなく、
  その人と対象の関係を示すものです。


王政を支持するか、
革命勢力を支持するかで、
使われる言葉は違ってくるということでしょう。


してみると、
何気なく使うことばで、
見舞う私と、
見舞われる人との関係が、
読む人に、
それと分かってしまう。



《菜花》
我が家の玄関、
プランターの菜花が、
ぽつりぽつり、
花をつけ始めました。

【大山】2020・2・16



《夕空》
昨日は、
こんなふうに暮れました。

【大山】2020・2・16



そして、
今朝は雨です。

明日は雪だそうです。

明後日も雪だそうです。
気温も下がるようです。 

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