よぶこえの引き出し

【CODA】2020・3・20

2020年03月20日

《CODA》
昨日の午後、
テレビドラマを見ていて、
「CODA(コーダ)」という言葉に出会いました。

“Children of Deaf Adults“ の略だそうです。

「両親の一人以上が聴覚障害を持つ、聴こえる子」
「聴覚障害の親のもとで育った、耳の聞こえる子ども」
「耳の聴こえない親を持つ、耳の聴こえる子」
というふうに定義されているそうです。


ドラマは、
そういう人が二人登場します。
一人は殺人犯、
一人は手話通訳者。 

そういう子どもの悲しみと辛さが、
そういう親たちの哀しさと戦きが、
丁寧に描かれていました。

「広辞苑」第七版には、
「戦く」はあるのに、
「戦き」は載っていません。

  おののく【戦く】恐れや不安のために、体がふるえる。わななく。


小説『海の沈黙』と絡ませながらドラマは進みます。

『海の沈黙』は、
ナチスの若き兵士と、
パリジェンヌとの話として、
映画にもなっているそうです。

ナチスの兵士のどんな語りかけにも、
パリジェンヌは沈黙で答えます。

殺人を犯した子を守るために、
沈黙を貫く母の姿が、
『海の沈黙』とだぶらせて話は展開します。

その他の障がいのある親を持つ子もいます。
でも、
そういう子どもを表す特別の言い方はないようです。

してみると、
聴覚障害の親と、
聴覚障害のない子どもの関わりは、
ある意味、
特別な関係なのかもしれません。

寝床に入ってから、
そのことを、
あれこれ考えていたら、
目が冴えてしまいました。

そういう子どもは、
生まれてから一度も、
言葉としての親の声を聴いたことがない。

「いい子だね」も、
「かわいいね」も、
「大好きだよ」も、
「痛かったね」も、
「可哀そうに」も、
「頑張ったね」も、
「大丈夫だよ」も、
親の声として聴いたことがなく大きくなる。

そうした「声」による安心感や充足感が得られにくい。
そして、
そうした子どもは物心つくころから、
手話と音声言語のバイリンガルとして育つ。
それは、
ある意味、
特別なことなのかもしれません。

取調室で母親が言います。
手話と苦悶の表情で・・・。

  子どものころから、
  耳が聞こえないことで、
  いっぱい差別を受けて来た。
  だから、
  そんなことはなれっこになった。
  でも、
  そのことで、
  我が子から蔑(さげす)まれることほど辛いことはなかった。

胸をかきむしりながら、
泣きながら言う母親の姿は胸を打ちました。


南田洋子の迫真の演技もあって、
見ていて、
自然に涙がにじみました。
 



《今朝の空》
久しぶりにからりと晴れました。

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