よぶこえの引き出し

【差別的色彩】2020・5・1

2020年05月02日

《差別的色彩》
今日の山陰中央新報に、
こんな記事が載っています。

見出し
 スーパー店員、ドライバー、郵便局員
 人間扱いされず
 クレーム疲れ
 過酷な環境
 社会支え


記事からの抜粋
 社会生活の維持に不可欠な仕事にに就く人は、
 「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれるが、
 客からの心ない言動にさらされることも。

 「人間あつかいされず悲しい」
 「品切れのクレームで精神的に疲れた」
 〈全国スパーマーケット協会〉には、
 現場の店員から、
 さまざまな相談が寄せられた。

 家族連れを指さして、
 「『密』になる。なぜ家族で来るんだ」と、
 店員に迫る客もいるという。

 「荷物の届け先で消毒スプレーを掛けられた」
 との相談も寄せられた。

エッセンシャル・ワーカーとされる職業の例が載っています。
 医師
 看護師
 薬剤師
 保育士 
 弁護士
 公共交通やトラックの運転手 
 電気やガスなどインフラ関係
 スーパー店員
 警察官 
 消防・救急隊員
 などなど


先日は、
医療に携わる方の家族が、
保育所や職場で、
不当な扱いをされたという記事もありました。


こうしたことは、
連日、
テレビで報道されています。

そうしたことに、
それらが不当であるがゆえに、
そうれらが理不尽であるがゆえに、
私は差別的色彩を感じます。
私は差別の匂いを感じます。


差別か差別でないかの判断、
私は、
これまで、
いつも、
熊谷達也『七夕しぐれ』(光文社)の、
238ページと239ページを、
判断基準にしてきました。

【差別的色彩】2020・5・1



  いじめと差別とは、
  現象的に似たような場合でも、
  まったくの別物で、
  差別には、
  それを容認する社会的な背景や力学が働いている。

  だから、
  似たものどうしでも、
  いじめよりも差別のほうが、
  ずっと根深くて深刻だ。

  差別される側には、
  差別される理由を解消する手立てがふつうはない、
  というより、
  最初から取り上げられているのだから、
  ある意味、
  どうしようもない。


  結論から言うと、
  いじめと差別では、
  戦う相手が違う。
 
  いじめの場合は、
  もし戦う勇気を絞りだすことができるなら、
  といっても、
  それ自体がほとんど不可能に近いのだけれど、
  戦う相手は直接いじめている相手ですむ。

  しかし、
  いじめではなく差別となると、
  話はややこしくなり、
  表面上の敵は直接かかわっている相手であっても、
  本当に戦わなければならないのは、
  その背後にあるもの、
  つまり、
  このときの私やユキヒロ、
  そしてナオミにとっての戦うべき相手は、
  ノリオやヨシコではなく、
  大人がつくってきた社会だった。   



店員さんや運転手さんや配達の人や、
医療に携わる人やその家族が理不尽な言動を受ける時、
この人たちが相手にするのは
直接、
理不尽な言動をする目も前の人ではなく、 
社会に蔓延(まんえん)している、
イライラ、
カリカリ、
不安や、
恐怖や、
不満や、
憤慨や、
批判や、
怨念や、
失望や、
絶望や、
そうした見えない空気なのです。

今日の新聞を読んで、
そんなことを思いました。

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