よぶこえの引き出し

【ぼんやり】2020・6・3

2020年06月03日

《ぼんやり》
今朝の寝床で読み終えた一冊、
青山七恵『私の家』(集英社)に、
こんな箇所があり、
私にはない感覚なので、
ぼんやりとしか分かりません。
でも、
その「ぼんやり」が、
何かとっても得難いもののように思われます。
「ぼんやり」のゆえに、
とっても大切なもののように思われました。 

【ぼんやり】2020・6・3



  すると純子が、
  「でもこの子たちならわかるかもしれない」
  とまた出し抜けに口を開いた。
    あたしたちにはわかんなくても、
    この子たちが大きくなったとき、
    ある日いきなり、
    お母さんの気持ちがわかるかもしれない。

    そうじゃなかったら、
    この子たちの子どもたち、
    またその子どもの子どもがわかるかもしれない。

    だって、
    わたしたちが自分で発見したつもりになっているどんな気持ちだって、
    ほんとのところは、
    あたしたちのおじいさんおばあさんとか、
    そのまたおじいさんおばあさんが、
    誰にもわかってもらえなかったその気持ちなのかもしれないんだからね。

  祥子は相槌を打たず、
  自分に問うた。
  苦しんでいた母親の気持ちをもっとも理解できるのは、
  やはりその母から生まれ、
  子を産み母親になった自分なのではないだろうか。

         (中略)

  あの子たちもまた、
  自分がいなくなったあと、
  それぞれの道なき道に迷いこんでゆくのだろうかと思うと、
  娘たちが哀れだった。

  でも、
  どんなに傷だらけになって、
  やっかいな枝葉をかきわけていったところで、
  二人が探し求めるであろう「本当の母」である自分は、
  すでにそこにはいないのだ。

  だからといって、
  そんなことは無駄だからやめなさいと、
  彼女たちの肩を摑(つか)んでやることももうできない。


わかるようでわからない、
わからないようでわかる気もする。
人生だなあ~と思ったりもする。

本を閉じて、
しばし物思いにふけりました。

枕元に朝の陽が射してきました。



《清水寺の夏》

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