よぶこえの引き出し

【正義とか正義感とか】2020・6・29

2020年06月29日

《正義とか正義感とか》
日曜日の台所で読んだ本。
三国美千子『いかれころ』(新潮社)

台所、
我が家で一番涼しい場所です。

『いかれころ』、
意味不明の「いかれころ」に興味をそそられました。

もう終わりに近いところで、
「久美子」が河内弁でつぶやきます。
「ほんま私は、いかれころや」

どうやら、
「ほんまに私は踏んだり蹴ったりやで」
ということらしい。

4歳の女の子「奈々子」の視点から、
回想風に日常が語られています。


たとえば、
「奈々子」の通う幼稚園でのできごと。
  子供たちが集められる社会の中は、
  村内とはまた別の秩序と権力が支配しているのに私は気づいた。

汗ばむ季節の園庭で、
運動会の練習のときに、
そのことは起こります。
  冗長な動きの連続と慣れない炎天下での長時間の練習に、
  子供たちは飽き始めていた。
  いつもにこやかな由美子先生が強く手を叩いた。
    さあ、
    ダンスの練習をがんばりたい人は立って下さい。
    練習をしたくない人は座っていなさい。
  半分くらいの気概ある子は立ち上がった。
  「今立った人は教室に入ってよし。座っていた人はここで反省してなさい。

そう言って、
立ち上がった子たちと一緒に、
先生も教室に入ってしまいます。
         
  どうしてこんな仕打ちに遭うのか誰にも分からなかった。
  それは子供たちに防ぎようのない暴力で、
  指導という正しさの名のもとに行われる分、
  性質(たち)が悪かった。
         (中略)
  後から戻ってきて、
  やる気のない子供にお説教をしてから、  
  教室に入ってよしと言った先生を、
  私は二度と許す気にならなかった。 

【正義とか正義感とか】2020・6・29



「正しさという名のもとに行われる」からよけいに性質(たち)が悪い。
ふと、
昨日の山陰中央新報の「時論」を思い出しました。
江川紹子さんが、
「人を追い詰める『正義感』」という文章を載せています。

その中に、
こんな言葉が出てきます。
「正義感ですよ、いらぬ」
「身勝手な正義感」

さらに、
  嫌悪感や嫉妬心から発せられる悪口も、
  正義感でコーティングすれば、
  自己正当化され、
  攻撃にためらいがなくなる。

そして、
吉野弘の詩「祝婚歌」を引用しています。  
  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい 
 

宣言解除後、
営業再開の報道には、
ことさら「感染予防」の取り組みが強調されるのを見るにつけ、
「正義」とか「正義感」とか、
そういうことが気になります。

マスクをしないこと、
一定の距離を保たないこと、
向かい合って食べること、
ふつうにしゃべること、
行楽地に出かけること、
込み合う時間に買い物をすること、
「夜の街」で働くこと、
そういうことを咎め立てする雰囲気も、
それを良しとする「正義」や「正義感」が見え隠れして、
私からすれば、
「正しさの名のもとに行われるぶん性質(たち)が悪い」 

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