よぶこえの引き出し

【精神医学・科学・哲学】2020・7・3

2020年07月03日

《精神医学・科学・哲学》
昨夜の読書で、
三つのことを学びました。

  精神医学では、
  いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。
  死刑を宣告された者が、
  処刑の直前に、
  土壇場で自分は恩赦されるのだ、
  と空想しはじめるのだ。
ヴィクトール・フランクルが、
彼の著『夜と霧』に書いています。

「病像」とは、ある病気を特徴づける症状などの様々な性質のことらしい。

  それと同じで、
  わたしたちも希望にしがみつき、
  最後の瞬間まで、
  事態はそんなに悪くはないだろうと信じた。
  見ろよ、
  この被収容者たちを。
  頬はまるまるとしているし、
  血色もこんなにいいじゃないか。

それは、
アウシュビッツに送り込まれた人々に、
そう思わせるために、
そうして、
おとなしく従わせるために、
ナチスがアウシュビッツの駅に出迎えさせた、
選ばれしエリート被収容者たちだったのです。

恩赦妄想、
はじめて知りました。
でも、
そういうことって、
追い詰められると、
大なり小なり、
誰しも抱くものだろうと、
来し方を振り返って、
そう思います。


  科学の専門家にまかせてしまってはいけないのです。
  市民が一人一人、
  自らの頭で考えて意見を述べる、
  それによって専門家には見えない側面が明らかになるのです。
              (池内 了『科学の考え方・学び方』岩波書店)

このごろ、
テレビに、
毎日のように、
いろんな専門家が、
いろんなことをしゃべっています。

中には、
質問をはぐらかせて、
自論を滔々(とうとう)と語る人もいます。


  哲学とは、
  本来、
  ある人間の自己了解としていきられなければ全く無意味なものなのである。
              (竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』筑摩書房)

「自己了解」とは、こんな意味らしい。
  自分がどんな人間であるのか、
  何を欲しているのかを知ることであり、
  また、
  何を怖れ、不安に感じているのか、
  それに気づくこと。
  
もう少し引用します。
  要するに、
  わたしの予感のうち、
  古今の哲学書を読めば、
  “生き方“の「真理」をつかめるのではないか、
  という予感はみごとに外れた。
  
  生き方の最終的な「真理」などというものは原理的に存在しない。

  哲学は、
  自分自身に対する自分の了解の仕方を、
  大いに助け、
  それは生を豊かにするようなものだ。

  哲学とは、
  自分を知り、
  自分をよく生かすための一つの独自の技術(アート)だ。


いい学びをしました。
医学も科学も哲学も、
万人の医学、
万人の科学、
万人の哲学、
・・・というものはなく、
私の医学、
私の科学、
私の哲学、
・・・なのでしょう。

私の人生に役立ち、
私の人生を豊かにするものでなければ意味がない。
・・・ということでしょうか。


医師のアドバイスも、
学校で習う自然科学、人文科学、社会科学も、
生き方の指針も、
受け入れがたいものは、
誰しもスルーして、
受け入れたいものだけをつまみ食いして、
それを糧に、
自分の将来に向かって、
自分の人生を生きている。

少なくとも、
私自身はそうです。




《今朝の空》
この空から、
午後は雨が降るそうです。

 【精神医学・科学・哲学】2020・7・3
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