よぶこえの引き出し

【親のまなざし】2020・7・16

2020年07月16日

《親のまなざし》
先日の大雨で、
離れの「書斎」が雨漏りしました。

以前も、
壁伝いに水滴を見つけたことはありましたが、
ここまでの雨漏りは初めてでした。

もう、
ここは書斎としての体を成していないと、
覚悟を決めて実感しました。


昨日、
一日かけて、
講演に関わるものはすべて、
母屋に移しました。

それだけでも、
かなりの量でした。

夕方になって、
ほぼ片付いた離れを見たら、
「書斎」が「物置」になっていました。

大事にしまっていた4個の文箱も、
母屋の二階に上げました。

家族それぞれの成長の記録です。

母子手帳や連絡帳、
通信簿や任命書や表彰状などなど。

思ったこと二つ。

まずは、
親には敵わないなあということ。

私の小学校入学式の案内状を見た時、
心の底から、
そう思いました。

私が中学校で生徒会長をしたときの、
挨拶の原稿までとってありました。

私も意識して、
娘たちの「轍(わだち)を、
こまめにしまいこんでいましたが、
ここまでの気働きはありませんでした。


もう一つは、
親としてのまなざしです。

図らずも、
親も子も、
人の子の親として、
同じまなざしだったのだなあと、
あらためてそう思いました。

大庭みな子の言い方を借りるなら、
「遠い山を見る眼つき」・・・です。

『中学生までの読んでおきたい哲学⑦『人間を磨く』」(あすなろ出版)に、
大庭みな子が「遠い山をみる眼つき」という文章を載せています。

  幼稚園から少女期にさしかかり、
  大学に入る頃、
  母の姿が急に変わった時期があった。
  母はあまり小言を言わなくなり、
  代わりに、
  遠い山をみつめるような眼つきをするようになった。
      (中略)
  わたしは自分の娘に対するあり方を判断することができない。
  ただ、
  わたしは、
  いつの間にか、
  自分が、
  昔、
  よく母がしたように、
  言葉を失って、
  遠い山なみをみつめるような眼をしているように思う。

  わたしは今、
  多分、
  あの頃、
  母が考え、
  思い直しているような時期にいるのであろう。
  娘について、
  あれこれと言いたいことはたくさんあるが、
  言葉にならない。

  母もきっと、
  同じ気持であったのだろう。
  こちらの意見を述べてみたところで、
  育ち上がってしまった娘は、
  自分の好きなようにしかしないであろう。
  そして、
  それは、
  そのようにわたしが育てたからであろう。

【親のまなざし】2020・7・16



我が家の文箱が、
そのことを如実に物語っています。

私も娘たちも、
小学校に比べると、
中学校になってからのものが極端に少なくなり、
高校に入ると、
成績表はもとより、
残っているものがほとんどありません。

おそらく、
娘たちは、
そうしたものは、
めいめいそれぞれの保管しているのでしょう。

遠い山なみをみるようなまなざしは、
意識するとしないに関わらず、
親から子、
子から孫へと、
確実に伝わって、
「血」としてではなく、
「文化」として、
遺伝されていくのでしょう。


昨夜、
娘たちから、
それぞれに、
それぞれの用事で、
電話がありました。

娘と話しながら、
遠い山なみを見るような心のまなざしで話している自分を感じました。


それぞれの文箱は、
今度、
娘たちが帰省したとき、
もう少し趣のある文箱に入れて、
めいめいに渡そうと思います。

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